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偶像崇拝

偶像崇拝(ぐうぞうすうはい)とは、神像、カリスマ的な人間の像、超常的な自然構造物などの偶像を崇拝する行為のこと。その行為に対する否定の気持ちが込められた表現である。
釈迦自身は、偶像崇拝を明確に否定したわけではなく、また反対に肯定をしたわけでもない。

もともと、釈迦が出世した当時のインド社会では、バラモン教が主流で、バラモン教では祭祀を中心とし神像を造らなかった。当時のインドでは仏教以外にも六師外道などの諸教もあったが、どれも像を造って祀るという習慣はなかった。したがって初期仏教もこの社会的背景の影響下にあった。

また、初期仏教は宗教的側面もあったが、四諦や十二因縁という自然の摂理を観ずる哲学的な側面が多分にあったという理由も挙げられる。

仏教ではこの理念を主とした。したがって、釈迦本人に自身が根本的な信仰対象であるとか、ないという概念そのものが存在しなかった。これらの理由から、初期仏教においても当時の他の宗教と同じく、仏像というものは存在しなかった。

ただし、どのような行為を偶像崇拝とみなすかは宗教によって見解が分かれるようになった。礼拝対象を像そのものと見るか、像の表現するものと見るかで、偶像崇拝かどうか判断がわかれるからである。
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概論を述べるならば、ユダヤ教・イスラム教は前者の立場(礼拝行為の対象を像そのものと見なす)をとり厳しい態度を示す。キリスト教は一般に後者の立場(礼拝対象は像の表現するものと見なす)を取り、聖像を許容する傾向があると言えよう。
だが、各宗とも教派によっては異なった解釈をすることがある。すなわち、ユダヤ教やイスラム教においても、かならずしも聖像が全否定されるわけではなく、例えば紀元前後のユダヤ教はシナゴーグ装飾において自由な描出を許していたことで知られ、またイスラム教のシーア派などでは聖像使用に寛容な傾向がみられる。

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2009年11月27日 02:42に投稿されたエントリーのページです。

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